再考「コタン」 シベチャリチャシより眺めること
- ekimne-kuwa(それは山に入る-杖): 山杖
punkau(ハシドイの木)で造り、アイヌ民族が、狩猟で森に入るとき用いる杖 - kui-tak-pe(私-話す-もの): 境界棒
アイヌ民族が、主にsusu(ヤナギの木)で造り、使用者のay-sirosi(矢の印)を刻み、畑や仕掛け弓など、その場所を使っていることを標すもの - 切り株[kene(血になる): ハンの木]
- 映像 : 風雪の群像より
「風雪の群像」1970年 本郷新・本田明二作
旭川市常磐公園設置(1972年撤去、1977年再設置)
中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館収蔵管理 - 映像 : シャクシャインのチャシとシベチャリ川(静内川)より
写真撮影:山岸 せいじ
ポートフォリオ
(企画:風雪の群像を作る道民の会・制作:本郷新・協力:本田明二、収蔵:旭川市)
風雪の群像 年表
1969年(昭和44年)2月8日
風雪の群像建立運動
「北海道開拓記念碑“風雪の群像”をつくる道民の会」会長:更科源蔵(郷土史家)、発起人:五十嵐広三(旭川市長)、矢島武(北大教授)ら道内の文化人が中心になって各界有志40人ほどの総会が札幌市内のホテルで開かれた。制作者は、彫刻家・本郷新と本田明二が担当し、一般道民に4500万円の目標額で募金を呼びかけ、昭和45年5月までに旭川市常磐公園内への設置が計画され記念像造りの運動がスタートした。
この総会の席上で作者から構想デッサンが発表された。
1970年5月
風雪の群像建立反対論が起こる
郷土誌「あさひかわ」5月号の誌上にて、旭川市立向陵小学校教諭で雑誌「愚神群」同人の三好文夫から本郷新への公開状として「北海道2世紀への姿勢を示す、という群像建立の主旨からすれば、アイヌ人を堂々と立たせるべきだ。開道百年を経たいまも、依然として圧迫者だった和人がアイヌ人に対する贖罪を感じないなら、“百年”のお祭り騒ぎとしか受け止めていないことになる。」と主張。
砂澤ビッキは、「何故アイヌはコタン(部落)に坐らなければならないのか!!・・・何故全部を同じ高さにすることは構図上出来ないのか」と抗議のビラを旭川の街頭で一人で配った。
1970年8月29日
風雪の群像除幕式
「大地」「朔風」「コタン」「沃野」「波濤」の5体の群像が高さ1.8メートルの台座上に、高さ7メートル幅6.2メートルのコンクリート製バックボーンを背景として「風雪の群像」が建立された。
1972年(昭和47年)10月23日
風雪の郡像と北大アイヌ民族文化陳列ケースの同時爆破事件
当日、午後11時半頃、東アジア反日武装戦線リーダーの大道寺将司(24歳)らの「狼」部隊の手で旭川市の常磐公園内にある風雪の群像が爆破され、五体の群像のうち、アイヌ像を中心に三体が吹き飛ばされた。また、同時刻、札幌市の北大文学部付属北方文化研究施設のアイヌ民族衣装ケースも爆破された。
1975年(昭和50年)5月
風雪の郡像爆破事件(三菱重工爆破事件など、連続爆破テロ)犯人ら自供・起訴
1977年(昭和52年)10月19日~20日
風雪の群像再建反対活動
彫刻家・砂澤ビッキ(45歳・アイヌ民族)は、旭川市内街頭にて3千枚のビラをまいた。内容は「若々しく大自然を歌った四体の和人像に比べ、コタンの木株に腰掛けたアイヌ老人像はアイヌ民族を過去の者として位置づけ、差別観念を固定化している。もし、アイヌ像を再建するならば、アイヌ自らの手によって創造し建設されるべきである」と主張している。
1977年(昭和52年)10月31日
風雪の郡像復元再設置
爆破事件翌年に本郷氏が再制作し旭川市に搬入されたが、再度の爆破を警戒しカバーをかぶせて人目から隔離されていた。容疑者はその後捕まり、爆破事件依頼5年ぶりに、当初建立位置から西へ70メートルほど移され、高さ7メートル、幅6メートルのレリーフ付きコンクリート製バックボーンは、取り除かれた形で、台座も当初より低く1.4メートルに下げられて復元されることとなった。しかし、建立当初の反対論者やアイヌ民族の一部からも批判が再びおこった。
2014年6月7日~9月28日
本郷新記念札幌彫刻美術館「Our Place」展」にて、「風雪の群像」に関わる物語を素材とした作品「再考“コタン”・・・シベチャリチャシより眺めること」坂巻正美(インスタレーション)発表
(朝日、毎日、道新、北海タイムス等、当時の新聞各紙の内容を引用・参照)
2014/07/11:坂巻正美
[This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number JP23320039.]
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